地獄にて。

呪わしく恨めしく、俺は檻の中で歯噛みする。


ざり、と砂を踏む音が近寄ってくる。巨躯が地面をわずかに揺らす。
その巨体が自身に翳るような距離になってやっと、シャスールは目を開けた。
「おにいちゃん、いいこにしてた?」
歪な身体に不釣り合いな位置にある女の顔が笑う。
その正体はシャスールの妹だ。否、妹であったものだ。
実兄に恋い焦がれ、拒否され、そしてシュシュに魂を売り渡した哀れな妹。
融合、吸収されるはずの魂は逆にシュシュを乗っ取った。
隔世との境を突破し現世に降り立った彼女は、愛する兄を殺し、シュシュの世界に引きずり込んだ。
絶命時に欠損した部位は彼女によって補填され、色の違う両目は晒されている。
そしてシャスールは妹であったものに飼い殺されている。
ひび割れた笑みを受けて、シャスールは憎々しげに答えた。
「逃げようがないからな。大人しくするしかないさ」
その首には鉄の輪。端から繋がる鎖は檻に溶接されていた。
「おにいちゃんがいいこにしないのがわるいんだもん」
悪戯を咎められた子供のように頬を膨らませる。
巨体が揺れた。その瞬間、胸にあたる位置からだらりと血が垂れた。
どれほど手を尽くそうとも決して癒せない傷がそこにある。その傷をもたらした矢が抜けないのだ。
背中から胸に貫通するそれは、シャスールが突き立てた拒否の矢。
受け入れる意思のない確固とした排斥が、彼女を否定する。
「あいしてる、って、いってくれたら、だしてあげるよ」
「劣悪な冗談だな」
彼女の提案をシャスールは吐き捨てた。
シャスールが唯一それを口にするのはただ一人だけだ。それは彼女ではない。
「そう。……あ、おにいちゃん、きょうはね、おみやげがあるの」
良いものを持ってきたと言う彼女が、腹に抱えていたものを晒す。
薄い青色の宝玉。メタリア球体に似ているが、少し違うようだった。
「ほかのシュシュがもってきてくれたの」
自分の記憶を映像として映す道具だと説明する。
「おにいちゃんが、さきに、しんじゃったから、ね」
にぃ、と笑う。像を結び始めた球体に嫌な予感しかしなかった。


映し出された映像は凄惨を極めていた。
音も声もない。それでも、何が行われているのかは十分に知ることが出来た。
まず、右腕が飛んだ。二の腕から下の部分が弓と一緒に血だまりに落ちる。
間髪入れずに左腕が。浅かったようで、断ち切られたのは手首だけだった。
そして、絶叫。声こそ聞こえないが、おそらく彼女が今まであげたことのない悲鳴だろう。
不意に映像が揺れた。ぐるりと視点が変わる。
何かを踏みつけ、ダガーを突き立てている黒いエカフリップが見えた。
それを視認した直後、エカフリップはその場から吹き飛ばされる。
トネリコの幹に背中を打ち付けて、口から血がほとばしった。
それでも立ち上がろうとするエカフリップの右腕は、ありえない角度で垂れ下がっていた。
エカフリップの運。そう口が動きかけて、その首が地面に転がった。
視点が回る。両腕を失ったクラの女がそこにいる。
徐々に拡大されていく。視点の持ち主が彼女に近寄っているのだろう。
彼女が見上げるほどに近付いて。シャス、と口が動いて。
そして、巨大な腕に押し潰された。


「ふたりがどうなったか、ずっと、きにしてたでしょ?」
だから見せてあげたのだと、彼女は笑った。
顔から血の気が失せたシャスールが口を押さえてこみ上げてくるものを堪えている。
情けないほどに震えている。それほどまでに衝撃的な映像だった。
「ここにおいておくから、いつでもみてね」
ずっとこの光景を再生し続けるから。
2回目の再生を始める宝玉を檻の前に置いた。


悪意はシャスールを苛み続ける。
再生するほどに精度が上がるのか、何度目かで音声が復活した。
途切れて聞こえていたそれは、今では鮮明に聞き取れる。
目を逸らして視界から外しても、声が強引に意識に入り込む。
「みみをふさいじゃ、だめだからね」
シャスールの腕は後ろ手に拘束され、映像が見える位置に身体を固定された。
どう顔をそむけようとも、必ず視界に入る位置に。
そして虐殺の光景が繰り返される。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――


擦り切れた精神はもはや、目の前の光景を認識しなくなった。
麻痺した感覚の中で、シャスールは茫洋と身を委ねる。
悪意に蝕まれ摩耗した意識は現実を置き去りにした。
「おにいちゃん」
もはや彼女が呼んでも反応を示さない。
色の違う瞳は空虚に宙を見つめていた。
「ね、あいしてるって、いって」
それで、落ちる。彼女に突き刺さったままの拒否の矢は抜ける。
シャスールは永遠に彼女のものになる。
「あいしてるって、いってよ」
投げかけられた言葉を咀嚼する力もない。
それがどういうことかも解らず、その通りにシャスールが口を動かしかけ、刹那。
「よぅ、相変わらずいい魂飼ってんじゃねぇか!! 今度こそ俺に食わせろよ!」
シャスールの前に割って入り、ついでに宝玉を踏み潰した乱入者。
巨体の一部の下敷きになり、シャスールの檻の格子が少しだけ傾いた。
「ブルガコフ! あんた、またきたの! おにいちゃんはあげないんだから!!」
乱入者に対し、彼女は牙を剥く。
そこを退け、と敵意で彼女の身体が震えた。
奴がシャスールを狙うのはこれが初めてではない。攻防は何度か繰り広げられていた。
なにせ人間の魂だ。破壊を好むシュシュの絶好の標的。
特にこのシュシュは何度もシャスールを付け狙っていた。
「おにいちゃんはあげないんだから!! かえって! かえってよ!」
「おうおう、女のヒステリーは怖ぇなぁ」
また来るぜ、と。あっさりと乱入者は身を翻した。
さっき踏み割ったばかりの宝玉の欠片をにじって粉々にしていく。
シャスールは濁った瞳でその光景を見つめていた。


苛むものが消えたからといって、シャスールの意識が取り戻したわけではない。
麻痺した世界でひたすらに時間だけが過ぎていく。
不意に、ばさりと皮膜の翼が翻る。巨体が檻の前に着地した。
「よう、相変わらず食い甲斐のありそうな死んだ目しやがって」
この前の乱入者だと、シャスールが記憶を働かせる。
思い当たったからといって何かするわけでもない。
光明を失った目がわずかに揺れただけだった。
「はっ、あの馬鹿女ならオレの下僕が遊んでやってんぜ。ここにはオレとお前だけだ」
聞かずともよく喋る口だ。シャスールが正常な意識を持っているならそう返しただろう。
「んで、だ。提案がある」
右目を対価として差し出して契約しろと、シュシュが言った。
「組もうぜ。オレとお前ならいい相棒になる」
食う食われるような、獲物と捕食者の関係ではない。
対等な関係として契約して、肉体を融合する。
シュシュは肉体を得るし、シャスールは欠損した左上半身を彼女に頼らず補える。それはシャスールの生存に繋がる。
「こんなところで飼い殺されるなんざ、まっぴらだろ」
何度も言葉を投げかける。それは騙すための甘言ではなく、真摯な提案だった。
反応はない。もはや、この環境をどうとも思わない。無気力がシャスールを食い尽くしていた。
シュシュもそれは予想済みだったようだ。だから、それを奮起させる土産話を持ってきた。
「オレと融合すりゃ、お前は人外だ。何百年だって生きられる。…迎えに行けるかもな」
何を、とは言わない。言わなくても伝わる。
魂の循環に乗ったそれは、間もなく転生の準備に入る。
「…っと。そろそろ時間か。今日は帰るか」
怒涛の勢いで迫ってくる気配を感じる。
どうやら彼の下僕は蹴散らされたようだ。
「契約したくなったら呼べ。応えてやらぁ」
シュシュが翼膜を広げて暗雲へ飛び立つ。その飛び立った跡に指輪が落ちた。


矢と的を模したそれは、クラの印章。


シャスールの意識に記憶がなだれ込む。
茫洋としていた思惟は像を結ぶ。再構築される。
動かなかった指先が、ぴくりと動いた。
忘れてはならない。思い出せ。
「     」
渇いた口が言葉を紡ぐ。
活動を忘れていた舌は十分に回らなかったが、それでもはっきりと言葉になった。
そう、シャスールを捕えて飼い殺していいのは、ひとりだけ。
何故こんな状況を許してしまっているのだ。
脱出せねばならない。檻を叩き壊す。しかしひとりでは出来ない。ならば、ふたりでは。
「…見てるんだろう」
暗雲に飛び立ったものの、気配は離れていない。奴はすぐそこにいる。
久方ぶりに声を出したシャスールの視界。地平線に肉迫する巨躯が見える。彼女が戻ってくる。
「決断がお早いこって!」
シュシュが乱暴に着地する。足の下敷きになった檻の一部がひしゃげて、潰れる。
歪んだ格子に開いた隙間からシュシュが手を伸ばす。猛禽のような鋭い爪がシャスールの右目に迫る。
「さっさと抉れ」
やめろ、触るな、と絶叫する彼女の声が聞こえてくる。悠長にやっている暇はない。
「契約完了っと」
ずぶり、と。爪が眼球を抉り出した。


そして、不安なる騒動たる狩人は、彼女を八つ裂きにした。
肉体を得たシュシュは力任せに膂力を振るい、破壊の限りを尽くした。
彼女の持つ、同胞の肉体を吸収して身体を回復させる能力など凌駕して。
「お、にい、ちゃ」
その口蓋を貫いて、完全に息の根を止める。
もう動かないそれを、灼熱の火口の中に放り込んだ。
「終わったな」
「…あぁ」
返すぜ。シュシュはそう言って、支配していた身体を放棄する。
異形に変形していた肉体はひとの形に戻る。
絶命した時に大きく抉られた左上半身にシュシュの身体が宿っていた。心臓の位置にある目がシャスールを見る。
「眼球は返さねぇから、義眼でもぶち込んでおくんだな」
空洞の眼窩を指してそう言った。
そうだな、と頷いて、シャスールはその場に座り込んだ。
ただでさえ繋がれっぱなしで萎えた身体に初めてのシュシュとの融合で体力を使い果たした。
義眼云々は後だ。結い紐を失ってほつれた髪をまとめることさえ億劫だ。
「寝てろよ。なんか来たら勝手に融合して追い返してやらぁ」
「それじゃ休まらないだろ」
冗談を交えながら目を閉じる。
閉じられた視界に先程の光景が蘇る。勝利の余韻で口端が釣り上がった。
「…あとは待つだけか」
彼女の転生を、この場で。何百年も。
気まぐれに舐め取った返り血は、勝利の味がした。


力が足りねぇ。とそう奴は呟いた。
「オレの力の媒介は血だって言ったろ」
自身の血液を自在に操り、攻撃にも防御にも使う。
他人のものであっても、そこに少しでも自分の血が混ざれば支配できる。
そうやって彼女を内部から八つ裂きにしてみせた。
「支配下に置いてる血液の量がオレの強さだ。単純に言やぁ、多けりゃ多いほど強いんだよ」
「解りやすいな」
「だろ」
血祭りにあげた異形たちの残骸を踏みつけながら、そう言葉を交わす。
流れた血が大きな血だまりになって、そこかしこに点在している。
それらはすべてシャスールの、ひいてはシュシュの支配下に置かれる。
「やっぱ人間の血が一番だなぁ」
シュシュがそうぼやく。
どうやら血液にも質があるようで、人間のそれは能力を発揮するのにもっとも適しているのだそうだ。
「つまり、人間を大量に殺しまくったらお前は最強になりえる、と」
「察しのいいこって。っつーわけで、狩りにいこうぜ」
「仰せのままに」
待ち人の転生も果たされた。そろそろ迎えに行ってもいい頃だろう。



「顔が良いっていいなぁ」
裏通りに住んでいた娼婦の女を引き裂くシャスールの手さばきを眺めながら、シュシュが呟いた。
整っている容姿のおかげで、立っているだけで人目を引く。
注がれる視線の中から適当に見繕って声をかければ、獲物は簡単に釣れる。
その手段で狩った獲物の数はこれで2桁目になった。
「そりゃどうも」
言われ慣れているので今更だ。肯定も否定もしない。
それよりも、とシャスールは思考をめぐらせる。
そろそろ連続殺人として民兵に目を付けられかねない。場所を変えるとして、さて、何処に移すか。
「10年くらい続けんだからな、頑張れよぉ」
転生を果たした魂が宿る肉体が成長するまで。
彼女が冒険者として旅立つことが許される年齢に達するまで10年以上かかるだろう。
それまでにどれだけ力を溜めていられるか。
シュシュの力も。シャスール自身のクラとしての技量も。
「やれやれ。時間は余りそうにないな」
作ったばかりの血だまりに自身の血液を一滴落として、シャスールはひとりごちた。


そして年月が流れ、その日。

「お嬢さん、お名前は?」