目の前にあるのは絶望の光景。
シャオリーの視界には、嫌に光る太陽と彼女が愛するシャスールの。
「ぁ……」
茫然とシャオリーが呟いた。
目の前でゆっくりと引き抜かれる異形のルシュの手。
それに貫かれたシャスールの身体がくずおれる。びちゃりと嫌な音を立てて地面に転がった。
「これで、わたしのもの」
異形ははんなりと笑う。返り血が頬についていた。
「ぱぱ…?」
シャロンの知っているシャスールではない。
自分が向ける殺意でさえ軽く受け流してしまうような、シャロンにとっては憎たらしい人間だ。
こんな、左半身が大きく抉られた状態で泥の中に転がるような姿は知らない。
あらゆるモンスターの肉を捌いてきた猟師の勘が告げている。
どうあっても、どうしようもない状況だと。
エニリプサの神でさえ処置のしようがない。間違いなく絶命していた。
「あはははははははははははははははは!!!!!!!!!」
異形の身体についた人間の顔が笑う。
その面差しはどことなくシャスールに似ていた。
「とった! とった! うばってやった!! おかえり、おにいちゃん!!」
狂ったような声が響く。その歪んだ笑い声を爆炎が呑み込んだ。
一切の容赦のない業火は異形の体半分ほどを吹き飛ばす。
「あはは! もう、あんたのとこにはかえってこないの!」
「煩い」


パンダーラの穏やかな昼下がり。
武術道場の一角の小さな庵でシェヴィは生活していた。
「シェヴィにーーーい!!!」
元気な声がシェヴィを呼ぶ。
おう、とシェヴィが出迎えると、そこにはシルヴィオがいた。
「おはよっ」
「もう昼前だじぇー」
朝の挨拶をするには遅すぎる時間だ。日は中天に差し掛かっている。
「いいのっ。その日、さいしょに出会ったら、おはようって言うんだってダリねえが言ってたもんっ」
「テキトーすぎんじぇ。…ま、おはよーさん」
呆れた風情でシェヴィが苦笑いを浮かべる。言うものの嫌な顔はしていない。
「はい、これ、頼まれてたもの。ほかに何か欲しいものある?」
「んー…」
渡された布袋の中身を覗き込む。薬と食材が詰め込まれていた。
シルヴィオに頼んでおいた品目すべて揃っている。不足はないように思われた。
「ぱっと見て大丈夫そう………ん、なんだじぇこれ?」
布袋の隙間に緩衝材のように入っているものがある。生花のようだ。
咲き誇る花びらを引きちぎらないように気を付けながら引っ張り出す。
袋に詰め込まれたせいで形は多少崩れているものの、それは。
「……花輪?」
「花冠って言ってよっ!」
フルイェスク蘭やらエーデルワイスやらカルニフローラやら、果ては裁断された邪鬼ローズまで。
世の中すべての花と分類されるものが編み込まれた花冠だった。
「シェヴィにいが早く元気になりますようにって! みんなでお花持ってきて編んだんだよ」
えへへ、とシルヴィオがはにかむ。つられてシェヴィも口端を釣り上げた。
「あ、先輩」
何処にいてもあの水色は目立つ。
洗剤色と揶揄される服は、最後に見た時と変わらなかった。
「シル、裏の井戸でフルーツ洗ってきてくれ」
「はぁい」
たんすにゴンが渡した竹籠を抱えてシルヴィオが走っていく。
その気配が完全に消えた頃、声を落としてシェヴィに訊ねた。
「…それで? 足腰は?」
それは、シェヴィがパンダーラに居を構えることになった原因。
戦闘で不意打ちを受けたシェヴィは重い怪我を負った。
それきり下肢がほとんど動かなくなってしまった。
そんな状態では冒険者も出来まいと、冒険者を引退して治療に専念することにした。
パンダーラを選んだ理由は至極単純だ。義姉の故郷だった。それだけだ。
ボンタとブラクマールの領地争いで焼け出された孤児たちを保護していた孤児院から引き取られたのが姉だ。
その伝手をたどって、この一角に住居を借りることができた。
「シルヴェスタに見てもらったし、パンダーラの薬師にも見てもらったけど」
そこで不意に言葉が途切れる。それ以上は言わなくても伝わる。
身の回りの世話は出来る程度には回復したものの、従来の身軽な動きをするには至らない。
杖を使って歩けるようになっただけでも奇跡ですよと薬師が言っていた。
「ま、こうしてみんな来てくれるし寂しくないじぇ」


堅い樫の扉を叩く音で目が覚めた。
上等な白いシーツの中でヴェステルが目を覚ます。
ん、とシルヴェスタも小さく唸って目を開けた。
日がようやく地平線から覗いた頃だ。まだ夜と言っても差支えがない。
月明かりか朝日か判断しづらい光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
「…ヴェス、起きなさい。起きたら身支度をして、裏口から隠れて出なさい」
こんな早くから何の用だとヴェステルが聞く前に、扉の向こうの家長はそう告げた。
それだけを言って、扉の向こうの気配が遠のいていく。
いつも背後に控えているはずの、彼の妻の足音が聞こえない。車椅子の車輪の音だけがする。
明らかに異常事態だった。
「何があったんだよ」
ベッド下に脱ぎ散らかした衣服を拾ってヴェステルが首を傾げる。
それでもただならぬ雰囲気は感じ取れる。血の色の瞳に警戒が宿る。
シルヴェスタと共に身支度を整えて、部屋を出る。その目の前に隻眼の妹がいた。
「兄さん。…それに、義兄さんも、ついてきて」
話は道中でするから、と彼女はさっさと足を進める。
足早は歩調は優雅な振る舞いを心がける彼女らしくない。
嫌な予感だけはひしひしと伝わってくる。
「…どうした? 何があった?」
「議会がフランベルジェ家の排斥を容認したの」
権謀術数の足切りだ。今まで切り捨てていた側だったそれが、こちらに襲い掛かってくる。
恨みを持つ一部が暴徒となって、家の周りを取り囲んでいるのだと彼女は表情を変えずにそう言った。
「裏の倉庫の地下室に通路があるわ。…シベルはもう先行していると思う」
恐らく、と付け足したのは、彼女がまだ末弟の姿を見ていないからだ。
先に行ったと、姉が言っていた。嘘は言わない性格だから、真実だろう。
「その姉貴は」
「表の門で暴徒を食い止めてる。その間に逃げろって」
時間稼ぎをしている間に家人たちを逃がす心づもりらしい。
その努力のおかげか、屋敷にひとの気配はない。使用人たちはとうにいなくなったようだった。
「兄貴や姉貴はどうすんだよ」
「ふたりとも言っていたわ。……弟妹を守るのが兄姉の役割だって」
無様に逃げて生き延びることではなく、ここで犠牲になって時間を稼ぐのだと。
屋敷に残ることを決めたふたりに生き残るつもりはない。そんな、とシルヴェスタが小さく声をあげる。
「…いたぞ! あそこだ!!」
庭の角を曲がってくる人影が見えた。
松明に照らされた顔は怒りと憎しみと恨みに満ちていた。
玄関に繋がる門と裏口以外、この屋敷に出入り口はない。
裏口は固く閉ざされている。つまり、正面玄関にいた姉は。
屋敷には火が放たれているようだった。これでは家長である兄の生存も。
事態を悟ってヴェステルの顔が歪む。
それでも走る足は止めない。ふたりの遺志は継がねばならない。
隠し通路がある倉庫まであと少し。たどり着く前に追いつかれるだろう。
それなら、ヴェステルの取る手段は一つ。
「先に行け。シベルとヴェスを頼んだぞ。……シシリルベル」
妹とシルヴェスタが逃げる時間を稼ぐこと。逃げる踵を返した。
愛する妹の名を呼んで背中を押す。どうかせめて逃げてくれと。
「兄さん……わかったわ」
こみ上げるものをぐっと堪えて、彼女はシルヴェスタの手を掴む。
兄の意志に従わなければ。生き延びるのが彼女の役割。
倉庫の扉に手をかけた。扉には開かれた跡がある。末弟はきちんと先行できたらしい。
「義兄さん、早く」
「ごめん。それには従えない」
掴まれた手をシルヴェスタが振りほどいた。
そして彼女だけを倉庫に押しやった。引き戸の取っ手にトゲのおまじないをかける。
簡易の鍵を施してから、先程走ったばかりの数カマメートルを戻る。
そこは、暴徒に相対するヴェステルの隣。
「何で戻ってきた」
「知ってるでしょ。エニリプサは自己犠牲の愛他主義なんだって」
先頭の男が持っていた生首に見覚えがある。青錆色の長い髪。
まだ三十路じゃないと言い張っていた舌は、だらりと口から垂れ下がっている。
「どうやっても刺激できる状況じゃねぇぞ」
「大丈夫。血の滴る心臓に不可能の文字はないよ」


「ほんと、もう、みんな死んじゃうんだから」
スフォキアの一角。船渠を使い回して作られた研究所でシャアラが溜息を吐いた。
「シャスールもシャオリーも、シャロンも」
親子3人で邪悪の森のはずれに行くと言っていた。
邪悪の森の炭鉱に何か凶悪で強大なモンスターが住みついて、それを討伐しに行くのだと。
その炭鉱の近くにシャスールの実家があるそうで、もし父母に何かあったらということだった。
シャオリーは四肢をもぎ取られ、シャロンは首を落とされた状態で発見された。
シャスールは見つかっていない。近隣を探してもそれらしいものはなかった。
けれど現場の血液は3人分あったし、血だまりの中に見慣れた眼帯が転がっていた。
「ヴェステルもシルヴェスタも」
実家の方の、貴族の揉め事だったらしい。
没落したフランベルジェの屋敷は、一晩でただの瓦礫と成り果てた。
暴徒たちによって、家長と長姉と三男坊とその伴侶は殺された。
あとにいるはずの弟妹は瓦礫から発見されなかった。
家長の妻である女性は、居場所を突き止められて夫の後を追わされたそうだ。
「それに…姉さんも」
隔世から蘇った姉は、またそちらへ戻ってしまった。
いくらシャアラが信仰を捧げても、再びの奇跡は起きないようだった。
「せっかく私が一流になったってのに、誰も見てないんだもの」
宵風。姉の負っていたその異名で呼ばれるようになったのはいつだろう。
ずいぶん昔だったように思うし、最近だったかもしれない。
「ねぇロッティ、聞いてる?」
「…聞いてますわよ」
ごぼり、と水の中で気泡が弾ける音がして、濁ったシャルロッタの声がした。
ならよかった、とシャアラが巨大なポッドに背を預ける。その中に浮かぶ水色の巻き髪。
「ねぇ、みんなそれぞれ別れて、どれくらい経ったかな?」
「3768日14時間53分6秒」
「はは、シアラン細かい」
小さく肩を竦めてシャアラが笑う。応じる気配はない。
シャアラが背を預けている、シャルロッタが浮かぶポッドの横には機械しかない。
いくつものコードが複雑に絡み合っているさまは、シアランの義肢を思い起こさせる。
それが、シアランだった。
「そういう細かいとこは変わらないね」
機械の身体に記憶と知識と意識を移す。理論上、永遠を生きられるらしい。
その実験の第一号にシアランは志願して、そして無事成功を収めてここに在る。
人間と同じ構造の身体が完成するまで、彼はシャルロッタの横で無機質に歯車を刻む。
そしてシャルロッタもまた、シアランに続くことにした。
そのためにポッドに沈んでいる。彼女の身体には何本もチューブが刺さっている。
あと数週間で機械が完成し、実験が始まる。そうすればこの水色の巻き髪はもう見られない。
「…魂は循環するんだっけ」
死んだ魂は神々に召し上げられ、そして、浄化されて転生する。
そんなことを神父が言っていた気がする。興味がないので聞き流してしまった。
「ってことは、いつか、会えるのかなぁ」
魂が再生される周期はどれくらいだろうか。
何秒、何分、何時間、何日、何週間、何ヶ月、何年、何十年、何百年。
悩むならあの時聞き流さないでおけばよかった。
自分が生きている間に、また巡り合えるだろうか。
「大丈夫ですわよ。いくらかかっても、きちんと私たちが会いますからね」
永遠を刻む歯車を持つ身体で待てばいい。
微笑んだシャルロッタが吐いた泡が水面で弾けた。


勝った。隔世でシャスールは口端を釣り上げた。
妹を完全に殺すためにずいぶん手間がかかってしまった。
そのための代償はひどいものだった。何を失ったのか思い出すのに苦労する。
まずは身体だ。神々の元に召されるはずだった魂は強引に連れ去られ、シュシュの世界にに引きずり込まれた。
そこで妹だったものに永遠に飼い殺されるはずだった。
「次は何だったかな。…あぁそうだ、右目か」
何せ生きている魂は珍しい。彼女の隙をみてシャスールを食いちぎろうとするものはたくさんいた。
その中から接触してきたシュシュと契約を交わし、契約の代償に右目を渡した。
脆弱な人間の魂は悪魔の肉体を得、そして、檻を叩き壊した。
そのまま妹だったものを殺して、今に至る。その間にも色々なものを失った。
振り返るとすぐに済む回想だが、実際の時間にすると長い。現世は10年以上経っている。
「まぁ…あとは待つだけだな」
自身の絶命の際、愛しい妻と娘は妹だったものによって殺された。
その魂がふたたび転生するまでどれくらいかかるだろう。
「いつまでも待つさ」
俺を飼い殺せるのは君だけしかいないんだから。
心臓の位置にあったものの存在を感じながら、シャスールは返り血を舐め取った。


ずいぶん緩い。シャルヴィスの感想はそれだった。
往復してしまった現世と隔世の狭間は、もはやシャルヴィスにとって意味をなさないものになっていた。
この境界を越えることも戻ることも、意思ひとつで自在にできるようになってしまった。
少しばかり制約がつくが、注意すればさほど妨げにはならない。
それでも、越える気にはならなかった。
「俺らのことなんか気にしなくていいのによ」
粗雑な言葉遣いは、よく見知ったサクリエールのそれ。
その膝の上に抱えられるように、エニリプサの少年が座り込んでいる。
「ちょっとウチの弟と妹に会ってきてよ」
「無茶振りはやめなさい」
青錆の長い髪をなびかせる女の提案を隻脚の青年が温厚な笑顔で諌める。
その背後には金髪の女性が控えていた。
「ままー。ぱぱがいないとつまんないー」
「はいはい。そのうち会えるから待ってなさい」
エカフリップの娘の甘えた声の訴えをクラの女性が宥める。
その時になるまで、どれだけかかるか知らないが、再会は果たされるだろう。
地獄の底で待つよと、彼女の魂に注がれている意識がある。
「ちーっす、あの世新人のシェヴィでーっす。おっすお前ら、30年?50年? 数えてねーけど久しぶりぃ」
「同窓会じゃないんだから……」
パンダの仮面を掲げてゾバルが笑う。
その横で苦笑いするスーラム。濃い紫の布がはためいた。
「似たようなモンだろ。っつーことで同窓会すんじぇー」
土産話ならたくさんある。なんたって寿命まで生を全うしたのだから。
若くしてここにやってきた奴らとは違う。それでも永遠を刻む歯車ふたりには敵わないのだろう。
演技めいた動作でゾバルが手を叩く。軽やかな語り口が始まった。
「まずはスノーバウンド村のエカフリップの双子から…………」


Are you Restart?